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2012年1月21日土曜日

これまでのこと

ここ数年、すっかりブログで日記を書く回数が少なくなってしまった。

FacebookやTwitterにシフトしてしまったから、という理由ばかりではない。
ようやくこうして振り返ることができるようになったのだが、一番の理由はこの数年の何人かの友人の死にあった。
人生に年を重ねれば、遅かれ早かれ家族や友人の死というものに直面しなければならない。
それはいずれ必ず自分にも訪れる。
おそらく早すぎる死というものなどないのかもしれない。

3年前、短大時代の親しかった同級生が末期がんにかかっていることを知った。
彼女の余命は、ブログという今の時代特有の形で、日々の出来事や思いが淡々と物語を読むような軽快さで綴られていた。
それを知ることとなったときの緊張は私の気持ちを動揺させ、自分の一日一日がそれまでとは違う何かに変化して行った。
それをきっかけに時間ができると、しばしば横浜に移り住んでいた彼女に会って散歩に出かけた。
彼女は、一人娘を持つシングルマザーという、およそ私には計り知れない困難を内側に抱えて生きてきた。
久しぶりに会う彼女はやせ衰えた身体が痛々しく、とまどう私の心配をよそに、20歳の頃と変わらない明るさでコロコロとよく笑った。
私たちは他愛もない話に花を咲かせた。
彼女と歩きながら観る風景は、それまで気づかなかった静かな輝きに満ちていた。

その矢先、故郷に住む幼なじみの女友達が、突然亡くなったという知らせを受けた。
クモ膜下出血だった。
打ち合わせの途中で倒れ、ほんの数時間で眠るように逝ってしまったという。
亡くなる数日前の彼女のブログは、映画の話や、家の前でイタチを見かけたとかいう微笑ましい話題で終わっていて、まさかその先の日々が更新されなくなるとは微塵も感じ取る事ができないあっけなさだった。
彼女は幼い頃からピアノを学び、音楽と芸術とウィーンをこよなく愛し、その歴史を深く考察し、それらを人々に真摯にひも解いて伝えてるための交流の場所を作った。
彼女は幼い頃から、大人の成熟した知性を備えた女性だった。
幼なじみの親友であると同時に、故郷に帰れば同じ独身女性という同志でもあった。
彼女の愛するウィーンで私が作品を発表したことを誰よりも喜んで誇りに思ってくれている理解者だった。

亡くなった二人とも、慎ましく慈しみ深く、自分の志を全うする本当に強い女性達だった。
末期がんの彼女は再会してからというもの、病を抱えた体調にも関わらず、かならず展覧会に足を運んでくれた。
彼女のブログには、命の続く限り一つでも多く私の次の作品を見たいと書かれていた。
彼女が最期の一週間を迎えたとき、私は名古屋での展覧会に向かう足で、横浜の病院にたちより、別れを覚悟することとなった。
「名古屋には観に行けそうもないよ、ごめんね。」
と彼女は私に細い手を差し出した。
「そんなこと言わないで、10日後だから名古屋に観に来てよ」と私が言うと、
「もう無理」と笑った。

死期を知って生きることと、知らずに死ぬこと。
ふたつの生と死に気持ちを引き裂かれながら、その気持ちをブログに綴ることができなくなってしまった。
一方で、その想いを綴らないまま、他の話題を何事もないように書くこともはばかられた。

そうこうするうちに、その数ヶ月後には、古い友達が悲しい死を遂げた。
自殺だった。
その命の断ちかたを詳しく書くことは堪え難く、思い出せる限り、それほどまでに悲しく、あまりにも死を悔やまれる葬儀はなかったと言っていい。

そうした死と向き合った悲しみをそのときどきにブログに綴るのは、それすらも自らの日記の1ページをセンチメンタルに飾る、空々しい演出になってしまうことのような気がして、どうしても書くことができなかったのだ。

そのかわりに、私はその思いを作品の中に込めて来た。
それらは、愛知で発表した自作「青い誘惑」であり、ビデオ作品「夜明けまえ」ではクモ膜下出血で亡くなった友人が、生前その作品のために演奏してくしれたピアノの調べは映像の要となった。
その映像を彼女に見せることが出来なかったことは悔やまれるが、彼女の演奏が私の作品の中で生き続けていることで、それなりに彼女への恩返しになったと思うようにしている。

こうしたことをようやく書けるようになったのは、2011年という大きな変化の年を過ぎてきたからかもしれない。

少しずつ、以前のように、その日その日のとるに足りない思いをまた綴っていけたらと思う。