みなさん
昨日は、たくさんのバースデー・メッセージと、「いいね」をありがとうございました。
最近、歳のせいでしょうか、自分が歩んで来た道のりを振り返り、懐かしむことも多くなりました。(年下の友人たちには、遅い!と言われます。)
旅の出来事は、自分の記憶の中だけにとどめておいたほうが美しいといつも思っていましたが、同時に、その大切な記憶をあまりにも多く失くしてしまって、振り返りたくても振り返れいなことにショックを受けることがしばしばです。。。
残りの人生、あとどれくらい旅ができて、友人達に再び会えるのだろうか。
と、近頃は旅に出る度に、すでに老人のような黄昏のメンタリティでいます。
で、今回は自分が足を運んで目にしたことを、少しずつながら、できるだけ書き留めておこうと思い、つたない旅日記のようなものをFacebookに綴ることにしました。
それともうひとつ、今回のウィーンの滞在には特別な思いがあります。
4年前の夏、大切な幼なじみの女友達が、ある日突然、他界してしまいました。
くも膜下出血でした。
彼女は子どもの頃から勉強熱心で、関心をもったことは、その背景までリサーチする聡明な少女でした。
オリンピックを見てコマネチを好きになると、前転や側転の練習をしながらルーマニアの研究もするといった文武両道の女子でした。
中学では吹奏楽部で、彼女はクラリネット、わたしはフルートでしたが、彼女の音楽の知識たるや、女子中学生ながら圧倒されるものがありました。
子供の頃からピアノが得意で、音楽分析学を学び、ピアノの講師も務めて、彼女の生涯は音楽とともにありました。
大人になって、会う機会はすっかり無くなっていましたが、私が愛知で展覧会をしたとき、美術関係の機関で仕事をしていた彼女が、私の展示に偶然関わる事になり、再会をしました。
彼女は独身で、その清らかさは聡明な少女の頃のままでした。
会わなかった年月の間に、彼女はマーラーの研究を通してウィーンに魅せられ、1年程の滞在の間にドイツ語も学び、ウィーンの歴史、芸術、音楽、文化、デザイン、あらゆるものを隈無く愛していました。
なので、私がウィーン分離派館で展示をしたことを誰よりも喜んでくれました。
(同時に、私があまりにも、ウィーンにも分離派館にも知識がないことにも驚いていた。。。)
地元に帰っても、うちの家族はアートに関心がないので、私はいつまでたってもウダツのあがらない芸術家志望のフリーターですが(まあ、事実です)
おかげで、彼女だけが私を芸術家として扱ってくれました。
亡くなる2年前に、彼女は、ウィーンから持ちかえったアンティークのピアノやウィーン工房の家具を備えた、こだわりのウィーン・カフェをオープンしました。
そこでは、自らや各方面の音楽家を招いての演奏会をたびたび開催していました。
地元の町でアートフェスティバルが行なわれると、わたしの映像作品を上映してくれて、バッハのピアノメソッド、「インベンション」の音楽を使った映像に、彼女の生のピアノ演奏を合わせてくれました。
父の若い頃の写真をもとに制作したこの作品を、生前の父に見せられたことは、今でも唯一の親孝行だったと思っています。
彼女はいつも、自分が得た知識や見聞を人に伝えることに真摯に取り組んでいて、ブログでも、彼女が触れたあらゆる芸術や文化のリサーチが、丁寧にわかりやすく解説されていました。
彼女のブログのような親切丁寧な資料を遺すのは、わたしには到底無理で、せいぜい、失敗談でごまかすくらいしかできません。
しかしながら、彼女が愛したウィーンの街を、私ももっと好きになりたい、理解したい、という思いでこの2ヶ月間を過ごしました。
おかげで、愚痴のオンパレードだった前回のウィーンでのトラウマからはようやく解放され、今ではウィーンが大好きになりました。
ちなみに、先般お伝えしたバッキーノの映像作品「夜明けまえ」で奏でられる、エリック・サティの「オジーブ」というピアノの音楽は彼女の演奏です。
バッキーノの夜明けのイメージを口頭で伝えて、彼女に選曲と演奏を依頼していたところ、しばらくして、
「こんなイメージでどうかしら」
と、自身の演奏を録音したデモの音源を送ってくれました。
編集前の映像も彼女に見せていないのに、それはバッキーノの夜明けに似つかわしい音楽でした。
それなのに、怠慢にも、私がその後しばらくほったらかしにしておいた間に、完成した映像を見る事なく、彼女は突然逝ってしまいました。
というより彼女が逝ってしまったので、ようやくこの作品を完成させたと言った方がよいでしょう。
彼女が余りにも早く、あっけなく旅立ってしまったのは、きっと彼女の魂がウィーンで生まれ変わりたかったのではないかと、葬儀でその美しい亡骸を見て思いました。
今ごろ、このウィーンの街のどこかに彼女がいるような気がしています。
あっというまに2ヶ月が経ちました。
イタリアから戻ると、あんなに暑かったウィーンは秋に様変わりしていて、ビーサンだった人々はコートを着ていてびっくりです。
もう短パンの出番は無いようです。(ちょっとさびしい)
月曜日に次の展示の開催地、ドイツのデュッセルドルフに移ります。
昨日は、たくさんのバースデー・メッセージと、「いいね」をありがとうございました。
最近、歳のせいでしょうか、自分が歩んで来た道のりを振り返り、懐かしむことも多くなりました。(年下の友人たちには、遅い!と言われます。)
旅の出来事は、自分の記憶の中だけにとどめておいたほうが美しいといつも思っていましたが、同時に、その大切な記憶をあまりにも多く失くしてしまって、振り返りたくても振り返れいなことにショックを受けることがしばしばです。。。
残りの人生、あとどれくらい旅ができて、友人達に再び会えるのだろうか。
と、近頃は旅に出る度に、すでに老人のような黄昏のメンタリティでいます。
で、今回は自分が足を運んで目にしたことを、少しずつながら、できるだけ書き留めておこうと思い、つたない旅日記のようなものをFacebookに綴ることにしました。
それともうひとつ、今回のウィーンの滞在には特別な思いがあります。
4年前の夏、大切な幼なじみの女友達が、ある日突然、他界してしまいました。
くも膜下出血でした。
彼女は子どもの頃から勉強熱心で、関心をもったことは、その背景までリサーチする聡明な少女でした。
オリンピックを見てコマネチを好きになると、前転や側転の練習をしながらルーマニアの研究もするといった文武両道の女子でした。
中学では吹奏楽部で、彼女はクラリネット、わたしはフルートでしたが、彼女の音楽の知識たるや、女子中学生ながら圧倒されるものがありました。
子供の頃からピアノが得意で、音楽分析学を学び、ピアノの講師も務めて、彼女の生涯は音楽とともにありました。
大人になって、会う機会はすっかり無くなっていましたが、私が愛知で展覧会をしたとき、美術関係の機関で仕事をしていた彼女が、私の展示に偶然関わる事になり、再会をしました。
彼女は独身で、その清らかさは聡明な少女の頃のままでした。
会わなかった年月の間に、彼女はマーラーの研究を通してウィーンに魅せられ、1年程の滞在の間にドイツ語も学び、ウィーンの歴史、芸術、音楽、文化、デザイン、あらゆるものを隈無く愛していました。
なので、私がウィーン分離派館で展示をしたことを誰よりも喜んでくれました。
(同時に、私があまりにも、ウィーンにも分離派館にも知識がないことにも驚いていた。。。)
地元に帰っても、うちの家族はアートに関心がないので、私はいつまでたってもウダツのあがらない芸術家志望のフリーターですが(まあ、事実です)
おかげで、彼女だけが私を芸術家として扱ってくれました。
亡くなる2年前に、彼女は、ウィーンから持ちかえったアンティークのピアノやウィーン工房の家具を備えた、こだわりのウィーン・カフェをオープンしました。
そこでは、自らや各方面の音楽家を招いての演奏会をたびたび開催していました。
地元の町でアートフェスティバルが行なわれると、わたしの映像作品を上映してくれて、バッハのピアノメソッド、「インベンション」の音楽を使った映像に、彼女の生のピアノ演奏を合わせてくれました。
父の若い頃の写真をもとに制作したこの作品を、生前の父に見せられたことは、今でも唯一の親孝行だったと思っています。
彼女はいつも、自分が得た知識や見聞を人に伝えることに真摯に取り組んでいて、ブログでも、彼女が触れたあらゆる芸術や文化のリサーチが、丁寧にわかりやすく解説されていました。
彼女のブログのような親切丁寧な資料を遺すのは、わたしには到底無理で、せいぜい、失敗談でごまかすくらいしかできません。
しかしながら、彼女が愛したウィーンの街を、私ももっと好きになりたい、理解したい、という思いでこの2ヶ月間を過ごしました。
おかげで、愚痴のオンパレードだった前回のウィーンでのトラウマからはようやく解放され、今ではウィーンが大好きになりました。
ちなみに、先般お伝えしたバッキーノの映像作品「夜明けまえ」で奏でられる、エリック・サティの「オジーブ」というピアノの音楽は彼女の演奏です。
バッキーノの夜明けのイメージを口頭で伝えて、彼女に選曲と演奏を依頼していたところ、しばらくして、
「こんなイメージでどうかしら」
と、自身の演奏を録音したデモの音源を送ってくれました。
編集前の映像も彼女に見せていないのに、それはバッキーノの夜明けに似つかわしい音楽でした。
それなのに、怠慢にも、私がその後しばらくほったらかしにしておいた間に、完成した映像を見る事なく、彼女は突然逝ってしまいました。
というより彼女が逝ってしまったので、ようやくこの作品を完成させたと言った方がよいでしょう。
彼女が余りにも早く、あっけなく旅立ってしまったのは、きっと彼女の魂がウィーンで生まれ変わりたかったのではないかと、葬儀でその美しい亡骸を見て思いました。
今ごろ、このウィーンの街のどこかに彼女がいるような気がしています。
あっというまに2ヶ月が経ちました。
イタリアから戻ると、あんなに暑かったウィーンは秋に様変わりしていて、ビーサンだった人々はコートを着ていてびっくりです。
もう短パンの出番は無いようです。(ちょっとさびしい)
月曜日に次の展示の開催地、ドイツのデュッセルドルフに移ります。
